読書と性癖 性癖と読書 人格読書宣言
先日友人が,「本(ライトノベル)を読むと,その主人公たちの輝きに当てられて,自分が惨めになる.感情移入できない主人公は苦痛でしかない.」と言っていました.
その台詞に確たる反駁をする気もないし,する必要もないと思いましたが,その時に思った少しポエマーなことを書かせてください.
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私はドMです. そしてそれを誇りに思っています. なぜなら読書に良い方向に働くからです.
このブログを読んでいる人ならすでに重々理解していると思いますが,ほぼライトノベルしか読みません.
ドMは”許容の”文化だと思っています.
酷いことが起こることを許容する.酷いことが起きるさまを許容して受け取る.酷いことが起きることを許容することで期待する.
『えむえむっ!』みたいな直球作品じゃなくても,例えば先日感想を上げた『カナクのキセキ』のネゥちゃんみたいな境遇は大好物だし,『偽りのドラグーン』のティアナレルドみたいな無口キャラでもなじられるところを妄想できるし,いつだって隙をみて『円環少女-サークリットガール-』のメイゼルや『ロウきゅーぶ!』の袴田ひなたに苛められることを期待しています。
ほぼ無敵ですね。
許容することと本を読むことは似ている,と思う.
普段生活していくなかで,性格(←性癖の隠語)や人格(←性癖の隠語2 以後メインで使っていく)の影響は必ず受けます.自分の目を通して写った世界を脳が処理しているのですから当然ですね.
そんな中,読書は普段自分が写していない,そして時に想像だにしない世界の介入を自らが率先して行なっていることに等しいです.
その際,人格は全くなりを潜めているのか?
そうではありません.そのはずがありません.
むしろその時こそ人格は輝くのです.
強い光によって生まれた影がより色濃いように,真っ暗闇に存在する光はすぐ見つかるように,人格は自己主張します.
話が長くなるので手短に話しますが,そんな時,「ドM」という人格はどうはたらくか?
接続詞で言えば『順接』 または『並列』に近い働きをします.
許容することと本を読むことは似ている
つまり,本の世界をそのまま自分の人格に流しこむのがドMなのです.
逆のドSが『逆接』……みたいな?
性格と人格が読書に与える影響を”自ら意識する”ことは読書に素晴らしい広がりをもたらします.ソースは私.
なぜ乱☆恋のヘタレではない主人公にスカッとさを感じるのか.
なぜクイックセーブ&ロードの榊潔人にクズさを感じたのに3巻ではあんなにかっこよかったのか.
今にして思えばそれは,ドMな私なりの楽しみ方をしていて,ドMな私なりの行間を読んで,ドMな私なりの解釈をこねくりまわしたのでしょう.
人格を制するものは,読書を征す.
ここに 人格読書宣言 を させていただきたいと思います.
かしこ.
どうぞ,読書の折には, 皆さんも, ”ご自愛”ください.
PS:
すげーなにこれ. 怪しい宗教団体のパンフレットに載ってそうだ.